supplod さんの「 さよならの朝に約束の花をかざろう 」の感想

91点 さよならの朝に約束の花をかざろう

冷静に考えるとそんな傑作と言えるような大層な映画ではないと思うのだが、何度観ても号泣してしまう。いろいろ言いつつ結局「母の愛」とか「人生の尊さ」とかいったベタなテーマに弱い自分を、観るたびに発見する

※注意!! 岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』(2023)のネタバレも含みます。

2023/9/15(Fri.) 深夜
『アリスとテレスのまぼろし工場』2回目に備えてPrimeレンタル(880円。高ッ!)で観た。
公開当時、劇場で3回観た以来なので、数年ぶり4回目の鑑賞。

今回もまた無事に号泣しながら観終えた。
なんだろな……今みると更に、〔ヘテロ〕セクシズムが笑っちゃうほどすごくて、フェミニズム的にやばいほど問題のある内容だし、さすがにベタに泣かせにくるところが多過ぎて、実はそんなにたいそうな作品ではない気もするんだけど、そういうの関係なしに、とにかく自分はなぜかものすごく感動して泣いてしまう。ようするに自分もマザコンのきらいがあり、「母の愛」とか「人が生まれて死ぬこと」みたいな直球に手垢にまみれたテーマに弱いのだろう。自分に特効がある映画。そしてきっと多くの人にも。そういう意味で、マリー作品のなかでももっとも一般向けであり一般受けするアニメだとは思う。

じぶんの別のオールタイムベスト・アニメ映画である『おおかみこどもの雨と雪』にめっちゃ似てるな、と思った。それはもちろん「母の愛」的な主題もそうなんだけど、もっと細かいところでも全体的な雰囲気がそう。序盤の幼少期リタの「こないだ、ごめんね。こないだ、ごめんね……」とひとりで何度もつぶやきながらエリアルに謝りに来るさまは、雪の「おみやげみっつ、たこみっつ……」というまじないを連想した。
『おおかみこども』は『となりのトトロ』の影響下にあるので、当然『さよ朝』にもトトロ要素はあり、たとえば前半の農村パートでのラング&デオル兄弟の掛け合いはサツキとメイのそれだな~~と思った。

ハイファンタジーの世界観(誤用)に関しては、やっぱり自分の好みの領分ではないのでそんなに響かない。じぶんは現実世界・現代日本に寄っていたほうが好きだ。背景美術でゆいいつ素晴らしいと思うのは空の描写だ。タイトルバック。そのリフレインとしての終盤のふたり(と一匹)での逃避行。あの朝焼け、鋭く走る雲のすじ。「美しい世界」と作中でいってしまうシーンで一面にあれが映っていることの、なんという偉業だろうか。


描かれるいろんなキャラクターの言動を見ていて、最近読んだ本の一節を思い出した。
三浦雅士『青春の終焉』「あとがき──バロック、ブレヒト、少女漫画」より
>樋口一葉の『たけくらべ』がその端的な例だが、一般に、男は成長し、女は変容する。信如は成長し、美登利は変容する。娘と妻と母は一個の女性のなかの別の人格をさえ思わせるが、息子と夫と父はむしろひとつの連続性、発展する連続性のうちにある。 p.481
(※ちなみにこのすぐあとの文で、こういう男女二元論は「虚構である」と翻している点には注意されたい。)

いざ引いてみると真反対な気がするが、マリー作品に通底する思想として「男は息子/夫/父の属性を同時に持てるが、女は娘/妻/母の属性を同時には持てない」というのがあるのではと思った。それがもっともよく現れている女性キャラはマキアよりもレイリアで、彼女は王子に孕ませられて「母」になったことで、クリムを諦めざるを得なくなった(=最愛の人の「妻」でありたいと思えなくなった)。また終盤の、娘メドメルに別れを告げて飛ぶくだり(母であることを辞めなければ「自由」にはなれない)とかも。
たほう男であるエリアルは、リタの夫となり、そして子が生まれて父親になったと同時にマキアの膝の上で目を覚まし、久しぶりに「息子」にも還る。
『アリスとテレスのまぼろし工場』でもすぐに幾つか思い付く。
主人公:正宗の母親が、亡き夫の弟(義弟であり大学時代からの友人)からの求婚を「まだ母として生きたいからねっ」と断るシーン。それからもちろん、メインヒロイン:睦実が(別世界での)自分の娘である五実と別れて正宗との恋愛を取る結末とかも。(とはいえ睦実が五実と別れたのは彼女を本来の世界(=親元)に還してあげたいという意志もあり、また五実の父である正宗のほうも同じ選択をしているので具体例としては微妙なところだ)。


マキアは最初、エリアルに「レイリア」と名付けようとした。男子なのに。これってなんでだろう?? マキアにとって、自分がひとりぼっちになったときに出会った運命の子(=他人であり自分自身)につける名前として咄嗟に出てきたのが、里の同性の親友であるレイリアであったこと。男子だったらクリムとかでもよさそうなのに。 マキアのレイリアへの想いの深さは、レイリアがメザーテ王国に囚われたと知ってすぐに助けに向かうことを決めるところでも表れている。
→マキアとエリアルの親子関係ももちろん大事なんだけど、マキアとレイリアの同性関係も実はものすごく良い描かれ方をされているなと思った。上記の名付けもそうだし、レイリアの「マキアをここに連れてきて」とか、最後のレナトに乗って一緒に飛ぶシーンとか。

火・炎のモチーフはかなり露骨に使われていた。単純に、他者への強く激しい感情をあらわす。愛憎。
レナトの体内から燃える炎(ヒビオルを焦がす)とか、終盤のクリムの松明とか、あと思春期エリアルが酔っぱらって帰ってきて部屋の椅子に置いてあったカンテラ?の火が消えてしまう(=母への愛情を見失う)のとか。
あと、「ヒビオルを織る」のと、終盤にレイリアがマキアの長く伸びた「髪を切る」行為を対置するのストレートに感心した。

「お日様の匂い」とか「変なにおい!」とか、におい関連は『アリスとテレス』の影響で気になった。
ほかには、『アリスとテレス』のキスシーンにおける「雪→雨」モチーフと、『さよ朝』の親子再会シーンにおける「雪→(じゃなくて)灰」モチーフの関係とか。
クリム「イオルフが腰より長く髪を伸ばしていいのは、子を産んでからだ」を踏まえると、あの長老のラシーヌ様(激ヤバスリットのひと)も経産婦……ってコト!? 身寄りのないマキアを実の子供のように養っていることからして、ラシーヌ様も早くに子供を亡くしてるのかな……

「愛して、良かった」の『さよ朝』
「好きな気持ちは、ダメじゃない」の『凪あす』
別れとか失恋とか、誰かを愛することには必ず痛みがともなうけれども、その痛みごと愛を肯定する。
『アリスとテレス』然り。

女性主人公の失恋でいえば、そもそも『さよ朝』ってマキアが失恋するところから物語が始まっていたのだな。失恋は未来であり、物語(=人生)の始まりである。反対に異性愛の成就とは物語の終わりである。生殖したとしたら、その子供に〈物語〉の主役の座を明け渡して引退する。あとは老いて死ぬだけ……エリアルのように。


『アリスとテレス』を観た直後に『さよ朝』を観て思ったのは、(作品のトーン/イメージカラーが黒と白でコントラストがついてんな~~というのと、)やっぱりMAPPAよりもP.A.のほうが好きだわ~~~という身も蓋もない感想。いや、実際、制作会社の違いが作品内容のどの辺りにどの程度あらわれているのかなんて素人にはなにも分からないのだけれど、監督もキャラデザ/総作監も美術監督も、それから平松さんも、メインスタッフはほぼ同じなのに、なんか「線」が違うんだよな~~。素人目線のすげぇ不確かな印象だけど、簡単にいうと『さよ朝』のほうが線が繊細で、『アリスとテレス』のほうが太く野暮ったい感じがする。それが、『さよ朝』のほうが(画面のルック上)好きだな~~と感じるところである。

2023-09-16 01:51:59