supplod さんの「 響け! ユーフォニアム 」の感想 91点 響け! ユーフォニアム 滝先生の指導方法・存在に疑問符がつくが、ハードな「部活動」の実態をアニメにおいて描き切った傑作であることは揺らがない。部長の小笠原晴香さんと中世古香織さんが好き https://note.com/kksk/n/n29a490bb6781 以下、↑のコピペ 2024/07/17(水) ようやく『ユーフォ』1期を駆け足で観返した。観るのは3, 4回目、数年ぶりだろうか。 脚本・演出の凄さは言うまでもないんだけど、いま改めて観ると……シスターフッド・クィア的に本作を評価する上で、顧問の滝先生をどう受け止めるか(無視するか)ってめっちゃむずくね!?と思わざるをえなかった。マジでみんなどうしてるんだろう…… みんなの前で即決で挙手をさせて、それがさも「公正」なやり方だという風に(先生本人が)思ってそうなのが本当に暴力的。 それなのに、なんやかんやで可愛げもある「良い先生」だということになって、この成人男性教師の掌の上で、いたいけな若者たち(少女たち)がいいように踊らされて転がされている構造に……これ、「良い話」か!?と素朴に引いてしまう。 ほぼ覚えてないけど『リズ鳥』では滝先生の存在感が薄く、生徒ベースの自立した物語である点が本編のスピンオフとして優れているのかもしれないと思った。 2期で掘り下げられるんだと思うけど、滝先生のパーソナリティ(妻子や父親の存在)は重要だろう。 くみれい等の百合要素にとって秀一との異性愛がノイズである……とか、そんなことよりもずっと、(麗奈たちと)滝先生との関係、「子ども/大人」の構図のほうがノイズだろ!!と思う。 花田十輝作品として、『サンシャイン!!』『よりもい』『ガルクラ』などにおける、子どもである主人公たちを導く(あるいは抑圧する)大人の存在感・有無について考えたい。 また、京アニ・山田尚子作品でいうと『けいおん!』のさわこ先生と滝先生の対比はし易いよなぁ これも言われ尽くしているが、最終的に滝先生がセクハラかパワハラで逮捕されたら真の大傑作になっていたと思う。間違ってもこいつの跡を継承することはしてほしくない。 それ以外については…… 麗奈は、昔は素朴にええやんと思っていたけれど、今見ると(良くも悪くも)幼いな〜という印象が拭えず、しかも「特別になりたい」と周囲からの卓越(ディスタンクシオン)を目指しているわりには、久美子に執着して、ふたりだけの関係に依存して閉じようとしている点がどうも受け入れ難い。(⇔くみれいには乗れない) けっきょくはエリート血筋の「持てる者」の傲慢では、という気もするし、凡庸な普遍的な弱さ・青さを認めなければならない面も気になるし……(そして極めつけが滝先生への恋情?設定!) 「なかよしかわ」も……あまりに用意され過ぎてると感じちゃって苦手!! 夏紀センパイがめちゃくちゃ良い人なのはほんと好きだけど。 3年生ズが好きだな〜 晴香部長と香織のペアがいっちゃん好き。 あと、真価は2期になってからだけど、部内の人間関係のアレコレを「心の底からどうでもいい」と切り捨てる言動を(久美子に)みせるあすか先輩に一周回って救われるというか、惹かれる。そう言いつつ香織を気にかけて練習に付き合いもするし、でもバランスは取ろうとするしで、1期だけだと底がまったく見えないので良い。 香織先輩に過度に執着して麗奈にあれこれ対峙する吉川優子に対して、「なんなのあいつ……ムカつく!」と苛立つ麗奈だが、彼女も久美子と「特別」な関係を築こうと執着しており、優子のしていることを綺麗になぞっているのが皮肉だ。(こういう点でも脚本が本当に優れている) 8話「おまつりトライアングル」が空前絶後の神回なのは見返してより確信したが、同時に、大吉山へ登るくみれいのエロスの表象の露骨さは引いてしまうほどだった。(これくらい明示的にやらないと〈クローゼット〉に抑圧されてしまうから正しいのか? あるいは、わたしのようなジェンダー・マジョリティが「引く」ことは、その内面化された同性愛差別が明るみに出ている反応としてある意味ねらい通り……ということだろうか?) この回では、秀一をお祭りデートに誘って失恋する葉月のシーンとクロスカッティングする形で久美子と麗奈の登山が描かれる。凡庸な異性愛(の失恋)と「特別」な同性愛(の官能的な成就)……という、あまりにも分かりやすい対比構図。 ただ、これは『リズ』のみぞれの造形にも最近思っているんだけど、同性関係の「特別」さを強調することは、マイノリティの更なる周縁化に繋がりかねない危うさを常にはらんでいるのではないか。 (山の上から)周囲の凡庸な「大衆」を見下ろして悦に入る麗奈の精神性それ自体が至極凡庸で幼稚である。それを作品としてどこまで自覚的に描き切っていると読むかが難しいポイントだと思う。(少なくとも現在は)いち吹奏楽部員のトランペット奏者である麗奈が「特別」になろうとする見通しの抱える矛盾というか、「金賞」「全国大会出場」を “みんなで” 目指すことの矛盾というか、より広く、音楽(芸術)で卓越しようとすることの凡庸さというか…… 上記のように「くみれい」には乗れないが、だからといって久美子と秀一のヘテロカップリングを、百合オタクに対する逆張りのように持ち出すのも単なる異性愛主義への反動でしかないので、嫌で(じっさい1期最終話の本番前の秀一とのシーンは「ここでこんなにこの2人の関係に焦点当てるんだ!?」とヒヤヒヤした)、結果的に、久美子……すまないがお前はひとりで生きてくれ……になっている。 Tweet 2024-07-21 08:52:53
91点 響け! ユーフォニアム
滝先生の指導方法・存在に疑問符がつくが、ハードな「部活動」の実態をアニメにおいて描き切った傑作であることは揺らがない。部長の小笠原晴香さんと中世古香織さんが好き
https://note.com/kksk/n/n29a490bb6781
Tweet以下、↑のコピペ
2024/07/17(水)
ようやく『ユーフォ』1期を駆け足で観返した。観るのは3, 4回目、数年ぶりだろうか。
脚本・演出の凄さは言うまでもないんだけど、いま改めて観ると……シスターフッド・クィア的に本作を評価する上で、顧問の滝先生をどう受け止めるか(無視するか)ってめっちゃむずくね!?と思わざるをえなかった。マジでみんなどうしてるんだろう……
みんなの前で即決で挙手をさせて、それがさも「公正」なやり方だという風に(先生本人が)思ってそうなのが本当に暴力的。
それなのに、なんやかんやで可愛げもある「良い先生」だということになって、この成人男性教師の掌の上で、いたいけな若者たち(少女たち)がいいように踊らされて転がされている構造に……これ、「良い話」か!?と素朴に引いてしまう。
ほぼ覚えてないけど『リズ鳥』では滝先生の存在感が薄く、生徒ベースの自立した物語である点が本編のスピンオフとして優れているのかもしれないと思った。
2期で掘り下げられるんだと思うけど、滝先生のパーソナリティ(妻子や父親の存在)は重要だろう。
くみれい等の百合要素にとって秀一との異性愛がノイズである……とか、そんなことよりもずっと、(麗奈たちと)滝先生との関係、「子ども/大人」の構図のほうがノイズだろ!!と思う。
花田十輝作品として、『サンシャイン!!』『よりもい』『ガルクラ』などにおける、子どもである主人公たちを導く(あるいは抑圧する)大人の存在感・有無について考えたい。
また、京アニ・山田尚子作品でいうと『けいおん!』のさわこ先生と滝先生の対比はし易いよなぁ
これも言われ尽くしているが、最終的に滝先生がセクハラかパワハラで逮捕されたら真の大傑作になっていたと思う。間違ってもこいつの跡を継承することはしてほしくない。
それ以外については……
麗奈は、昔は素朴にええやんと思っていたけれど、今見ると(良くも悪くも)幼いな〜という印象が拭えず、しかも「特別になりたい」と周囲からの卓越(ディスタンクシオン)を目指しているわりには、久美子に執着して、ふたりだけの関係に依存して閉じようとしている点がどうも受け入れ難い。(⇔くみれいには乗れない)
けっきょくはエリート血筋の「持てる者」の傲慢では、という気もするし、凡庸な普遍的な弱さ・青さを認めなければならない面も気になるし……(そして極めつけが滝先生への恋情?設定!)
「なかよしかわ」も……あまりに用意され過ぎてると感じちゃって苦手!! 夏紀センパイがめちゃくちゃ良い人なのはほんと好きだけど。
3年生ズが好きだな〜 晴香部長と香織のペアがいっちゃん好き。
あと、真価は2期になってからだけど、部内の人間関係のアレコレを「心の底からどうでもいい」と切り捨てる言動を(久美子に)みせるあすか先輩に一周回って救われるというか、惹かれる。そう言いつつ香織を気にかけて練習に付き合いもするし、でもバランスは取ろうとするしで、1期だけだと底がまったく見えないので良い。
香織先輩に過度に執着して麗奈にあれこれ対峙する吉川優子に対して、「なんなのあいつ……ムカつく!」と苛立つ麗奈だが、彼女も久美子と「特別」な関係を築こうと執着しており、優子のしていることを綺麗になぞっているのが皮肉だ。(こういう点でも脚本が本当に優れている)
8話「おまつりトライアングル」が空前絶後の神回なのは見返してより確信したが、同時に、大吉山へ登るくみれいのエロスの表象の露骨さは引いてしまうほどだった。(これくらい明示的にやらないと〈クローゼット〉に抑圧されてしまうから正しいのか? あるいは、わたしのようなジェンダー・マジョリティが「引く」ことは、その内面化された同性愛差別が明るみに出ている反応としてある意味ねらい通り……ということだろうか?)
この回では、秀一をお祭りデートに誘って失恋する葉月のシーンとクロスカッティングする形で久美子と麗奈の登山が描かれる。凡庸な異性愛(の失恋)と「特別」な同性愛(の官能的な成就)……という、あまりにも分かりやすい対比構図。
ただ、これは『リズ』のみぞれの造形にも最近思っているんだけど、同性関係の「特別」さを強調することは、マイノリティの更なる周縁化に繋がりかねない危うさを常にはらんでいるのではないか。
(山の上から)周囲の凡庸な「大衆」を見下ろして悦に入る麗奈の精神性それ自体が至極凡庸で幼稚である。それを作品としてどこまで自覚的に描き切っていると読むかが難しいポイントだと思う。(少なくとも現在は)いち吹奏楽部員のトランペット奏者である麗奈が「特別」になろうとする見通しの抱える矛盾というか、「金賞」「全国大会出場」を “みんなで” 目指すことの矛盾というか、より広く、音楽(芸術)で卓越しようとすることの凡庸さというか……
上記のように「くみれい」には乗れないが、だからといって久美子と秀一のヘテロカップリングを、百合オタクに対する逆張りのように持ち出すのも単なる異性愛主義への反動でしかないので、嫌で(じっさい1期最終話の本番前の秀一とのシーンは「ここでこんなにこの2人の関係に焦点当てるんだ!?」とヒヤヒヤした)、結果的に、久美子……すまないがお前はひとりで生きてくれ……になっている。
2024-07-21 08:52:53