supplod さんの「 僕が愛したすべての君へ 」の感想

66点 僕が愛したすべての君へ

小説原作であることを隠そうともしない説明モノローグの過剰さ。挿入歌のボーカルに被ってまでモノローグし出したのには流石に爆笑した

対作品『君を愛したひとりの僕へ』よりも先に観た。

2023/6/30-7/1 Primeレンタルで視聴

劇伴が無いか、あってもごくミニマルであり、台詞も説明口調で淡々と進む、アニメ映画らしからぬ非常にロートーンの作品。世界間を移動する「パラレルシフト」は無意識に、知らないうちにしれっと起こっていることが多い、という設定の影響も強いだろう。細田守の『時かけ』のド派手で主体的(?)なタイムリープ演出とは正反対だ。
男子主人公のCVがめっちゃ素人なので相方は好きそう。
小説原作ということで、主人公のモノローグを多用し、とにかく説明が多い。映画・映像媒体としてはかなり下手(コンテとか作画とかカメラワークとかも言わずもがな)。
あと、ボーカルつき挿入歌を流してるときまで説明モノローグを被せるな!!! よく聞き取れないww もう狙ってギャグをやってるとしか思えない。。
全体的に、これがやりたいからこのように展開を並べていって……という骨組みが透けて見える物語で、嫌いだった。

高校時代に瀧川和音さんにやべぇ因縁付けられてから振られまくる(のをクラスメイトに笑われながら見守られる)くだりだけはとても面白かった。
そのあとは爆速で付き合って恋愛も仕事(研究)も順風満帆で結婚する。お互いの着ていたTシャツに画期的なアイデアの数式を書き殴ったことによって最終的に下着姿になるのは、こ、これが「仕事と恋愛が一体化した順風満帆カップルのアニメ的表現か……!」と感動さえした(わろた)。
息子が通り魔(?)に襲われて妻:和音が現実逃避でオプショナル・パラレルシフトをするくだり、これだからミソジニー・父権性と強固に結びついたSFはクソなんだッ……!!となった。ハヤカワ滅ぶべし!!!(でもハヤカワepiからアトウッドも出てるんだよな……)
その堤防のシーンで息子に「あ、コーヒー飲む?」「いい」「そっか」とあしらわれるくだりとか、なんか時々シュールギャグっぽいのをぶっこんできて笑えたんだけどもうあんま覚えてない。

結婚して子供をつくって──の時期、さすがに男子主人公くんの顔、老けすぎてない? とはなった。瀧川さんのほうはほぼ変わってないのに……。男性キャラと女性キャラの各年齢でのデザインの差異というのは一時期『SHIROBAKO』で話題になってたな。2次元女性は「中年」が欠落して、少女から一気に老年の「お婆ちゃん」になってしまう現象。
冒頭から、主人公夫妻の老年期──お爺ちゃんお婆ちゃんの姿を映して物語をがっつりやるのは好ましいんだけどね。。

『君僕』はてっきり、もう片方の虚質の視点から描いてるのかと想像していたが、序盤の離婚する両親どちらに付いていくかで分岐したガッツリifルートの自分の話なんだな。
終盤はおそらく『君僕』のものであろうダイジェストをガッツリやるので草生えた。いやそんなかいつまんで説明されてもその黒髪幽霊ヒロインちゃんに思い入れとか湧かないから最後に主人公と無事再会できてもなんも感慨深くねぇよ!! てか、[青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない]でも思ったけど、「出会わなかった世界線」「すべての記憶を失った世界線」でそれでも奇跡的に「再会」する(出会い直す)というのが苦手だ。予定調和。

最終的に、「僕」と出会わずに他の誰かを愛した「君」も含むすべての世界線での「君」を愛するとか、すべての世界線での「僕」がどうとか言ってたけど、言い方的に、多分にヘテロ中心主義は強くて、どの世界線であろうがひとは必ず誰か(異性)を愛して結婚して子供をつくって……というのが自明の前提っぽくなってるのがうげぇ~ってなった。それはぜんぜん「すべての可能性」ではない。(いや、これはわたしの早とちりというかいつもの恣意的な見方であって、実際はそうした可能性もちゃんと想定されていると読むのが妥当なのかもしれんけど)

別のヒロインを愛することにした別世界線での自分をも肯定する、という態度は、SFというよりは分岐式ノベルゲームの問題系という感じで、むしろそのほうが興味は持てる。ただ、やはり「すべて」の可能性について言及しているといいながら、その想像力はきわめて乏しいような気はしていて、すげぇ不幸な境遇を辿る世界線の自分やヒロインも無数に存在するであろうなかで、それでもそれらも含めて(さながら 神≒ゲームプレイヤー≒作者 のように!)すべてを肯定し祝福を与えるというのは、お前がたまたま幸せな世界線にいるから言えることじゃないのか?と訝しんでしまう。あぁその通りだよ、そんな悠長なことを言えるのはここが幸福な世界だからだよ、それで何が悪い!と開き直られたらなにも言い返せないが……。
すなわち、「ここではない世界/自分」というSF的・可能世界的な想像力を働かせて、「すべて」という全称命題的な大言壮語を呑気に宣言できるのは、偶然に成功した勝者・強者の特権であり、すなわちSFとは本質的に、そうした強者の特権性(父権性・マッチョイズム)と癒着したジャンルである……みたいな、メタSF批評作品として解釈したら少し面白い(自分好み)かもしれない。

SF設定のほうで疑問に思ったのは、じぶんの「虚質」に対して、もともと生きていた世界(=表示が「0」の基底世界)がひとつに定まるのか?ということ。虚質(ようは魂みたいなもんでしょ)と世界が本質的に対応する仕組みがよくわからん。というのは、パラレルシフトを無意識のうちに無数に繰り返していたら、そもそも自分はどこの世界に生きていたのかが分からなくなりそうだし、じぶんが故郷だと思っていた世界が実はすでに任意回パラレルシフトを繰り返した末の世界である可能性もあると思う。つまり、当人の主観・実存的にも、また世界間を俯瞰する客観的・SF的な立場としても、個人の虚質といち世界が一対一に対応する必然性も合理性もないように思える。あれだけパラレルシフトが事細かにしれっと発生するカオスな世界設定では、自分の虚質のアイデンティティをひとつの世界に求める、というのは考えにくい。……むしろ、この虚質と世界の結びつきは、これをSF作品として鑑賞者にある程度わかりやすくパッケージングするための、メタな都合による設定であると見たほうが合理的である。(すなわち、言うまでもないことだが、本作はハードSFからは程遠い。「ハードSF ≠ 高級で良質なSF」だけど)
以上のじぶんの疑問も、すでに作中描写で包含されていて、それをじぶんが見逃しているか理解できていないだけ、な可能性も結構ある。(自己同一性の拡散やら、瀧川さんがけっきょく最後まで「0」世界に帰ってこれなかった点とか……)

幼少期に離婚した父と母のどちらに付いていくかで作品が分岐する、というのはあまりにもキャッチーな設定だけど、精神分析的にも言いたい放題そう。

もう片方の『君僕』のほうは製作会社とか監督とかが違うんだっけか。ダイジェストで見る限り、絵柄・キャラの質感や画作りからだいぶ異なっていて、そうしたメタな次元で複数の「世界」が並行する作品設定を表現するというのはすごく面白い試みだと思う。そのへんに期待!

2023-07-01 17:23:19