supplod さんの「 老人Z 」の感想

77点 老人Z

機械(AI)SFのなかに「老人」という要素をぶっこんでドタバタコメディにすると、エンタメ的にもテーマ的にもこんなに面白くなるんだ、という発見。機械(×老人)SFだからこそジェンダー面での批判も重要

美術・絵コンテ演出・作画・音楽どれもすごかった。

がっつりSFが苦手なので『AKIRA』や『攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELL』、『うる星やつら ビューティフルドリーマー』などの古典的名作アニメ映画の類もあまり良さがわからないのだが、本作はわりと楽しめた。
寝たきり老人看護用の機械という、現代ではまったくフィクションではなく部分的にはすでに導入されて久しい技術がアイデアの核である、その現実との地続き具合が好きになれた理由の一つだろう。それからドタバタコメディ感も良かった。

機械・AIモノとしては、前半まではAI自身が人格を持つのではなく、あくまで介助する老人のうわ言的な意識を読み取って暴走する、文字通りの「介護ロボット」の次元にとどまっていたのが良かった。コミュニケーションが危うい寝たきり老人を題材としているために、機械が人間のようにふるまうのではなく、むしろ老いた人間が機械の側に近づいているかのように感じられるところが好き。人間と機械の双方向の歩み寄り・融合といった題材は『GHOST IN THE SHELL』などでも高踏的・思弁的に扱われているが、それを老人介護モノのなかであっさりと暗示してしまった点で本作のほうが優れていると個人的には評価する。
もちろん、「老い」と機械(AI)の関係だけでなく、その延長にある「死(故人)」と機械の関係をも『老人Z』は扱っている。故人の音声データを学習させてAIに模倣させる試みはすでに現実のものとなって物議を醸していたが、この映画でもやはり合成音声技術から故人のAIによる(偽)再生が描かれているのが興味深い。ここで重要になってくるのが「神」のアレゴリーであろう。終盤ではそのまんま大仏と化した故人=AIに合掌するシーンで幕切れとなるが、ここでは、若い人間・老いた人間・死んだ人間・機械(AI)・神 といった対象が複雑に寓意/対照関係を結んでいる。AIを生身の人間よりも高次元の存在として神に比する発想はSFでは王道である(後の『PSYCHO-PASS』など)が、本作の優れた点はそこに「老人」と「故人」という要素までをも投入して陰影と深みを与えているところにあるだろう。

物語後半では、高沢老人の意識の代弁者・介助役に徹していたZ-001号機が次第に独立した人格(亡き妻ハルを模した人格)を帯び始めてしまい、ありがちなアンドロイドものの趣が出てきてしまったのは残念だった。


1991年公開。まだ「看護婦」という語が使われていた時代に作られたアニメ映画であることもあり、女性差別的な描写が全編に満ち満ちている。女性看護士へのセクハラは当たり前、そもそも主人公の造形からしてナース服フェチに基づいているが、何よりいちばん気になったのは作中で(生きた)女性の老人がほぼ出てこない点。「老人」として出てくるのが男性の老人ばかりで、入院していたり寝たきりの高齢女性などもいるはずなのにいないことにされている。焦点が当たるのは高沢"老人"のすでに亡くなった妻:高沢ハルのみであり、AIによって模倣された荒唐無稽な(神々しい)似姿でしか、この世界では高齢女性が存在することが許されていないことがわかる。

むろん、ストーリーの本筋からして高沢老人の亡き妻への想いを描きたいがために、あえて高沢ハル以外の高齢女性をオミットしているだけだと擁護することも出来ようが、妻(=女性)に身の回りの世話を任せる古き悪き時代の「亭主」像とセクハラ老人(男性)像は明らかに地続きであり(亡き妻ハルと若い介護ボランティアの晴子を重ね合わせるのもキモい)、本作においてはさらに「機械(AI)」という本来は非-性別的な存在に介護奉仕=女性(妻)という定式からジェンダー属性を与えているため、やはり何重にも問題があると指摘しておくことは必要だろう。
機械SFという、一見すると性別なんて人間的な縛りからは解放されて自由なことが描けそうな題材だからこそ、かえって作り手や時代の性差別的な意識が如実に反映されてしまう好例であるといえる。

高沢老人は機械に取り込まれながらも「かぁちゃん……」と妻に助けを請うており、その「夫婦愛」が荒唐無稽なロボット作劇を駆動していたが、それでは助けを請われる側の女性が寝たきりになって同じロボットを使用したときには、果たして本作と同じような「物語」が発生しうるのか? 厚生省の官僚はすべての寝たきり老人を救うためにZ-001号機を開発したつもりだろうが、それを物語化した本作が皮肉にも示してしまったのは、そこで意図されている「老人」に女性は含まれていないという事実である。元来「人間」の意で「man(男)」が用いられてきたように、このアニメのなかで「老人」が意味するのも高齢男性のみであり、高齢女性は「老婆」といった性が有徴化された形でしか表現されえない(し、本作では老婆という単語も登場しない)。
こうしたことを踏まえると、高沢ハルを模した暴走AIが鎌倉の大仏を取り込んで病院まで夫を迎えにきて、しっとりと大団円的に終わりつつあった物語が一気にコメディに戻って荒唐無稽なままに幕を閉じる、という結末部の解釈も変わってきそうである。作中世界から排除されてきた高齢女性の「復讐」とも読めるし、そもそもあの高沢ハルAIは夫が記憶と理想のなかで妄想的に作り上げた虚像でしかないことを顧みれば、尊いものとして描かれたはずの「(老人の)夫婦愛」がじつは一方通行の欺瞞的なものであり、どこまでも独りよがりで周囲に迷惑をかけるだけのものであることを象徴するラストであるともとれる。

2022-12-11 22:05:32