supplod さんの「 映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲 」の感想 92点 映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲 マジで完璧なアニメーション映画。社会風刺としても、サイコホラーとしても、コメディとしても、アクション映画としても素晴らしい。2001年公開の本作は、2020年代に生きるわれわれの眼には「二重のノスタルジー」として映らざるをえない。この歴史性と、「オトナと子供」というテーマの普遍性の両方がたしかにあって、そのアンビバレンスもまた深い魅力の源泉となっている。 2022/9/15(木) 開始10分くらいで「あっこれはヤバいやつだ。いま自分は大傑作を観始めているんだ」と身体が震えた。こんな体験は初めてかもしれない。 「20世紀のノスタルジーに耽溺して子供に退行する大人/オトナたち」というテーマもヤバいが、映像面もずっとすごかった。全カットキマってる。(絵コンテ演出に水島努が関わってるのか……) 俯瞰ショットが多い。美術もすごいし劇伴も良いし、マジで完璧なアニメーション。 21世紀当初の痛烈な社会風刺モノとしても、サイコホラーとしても、コメディとしても、アクションとしても素晴らしい。 クレしんのギャグセンス、めちゃくちゃ自分好みじゃん!!となった。他の劇場版も観てみたい。 いま見てよかった。というか、昨年とかに観ててもあんまり刺さらなかった気はする。オトナというか、自分がもう「社会人」であり「子供ではない」のだというアイデンティティを引き受けられるようになったからこそ、こんなにも足元がグラグラ揺れるような感覚を覚えるのだと思う。大学生とかで観ててもここまで響かなかっただろう。 じぶんは世代的に20世紀の思い出なんて無いに等しいので、本作の20世紀なつかしネタがほとんど分からない。それでも、本作は単に「20世紀へのノスタルジー」という射程だけでなく、「オトナと子供」という普遍的なテーマを扱っているので自分にもクる。21世紀になっても、誰しもオトナ帝国からは逃れられない。 クレヨンしんちゃんの映画を最後に観たのはたぶん小学生時代の町内こども会の旅行のバス(平成ノスタルジー)。 TVクレヨンしんちゃんを観たのもおそらく小学生の頃が最後なので、この意味でも本作はじぶんにとって二重のノスタルジーを帯びている。『クレヨンしんちゃん』というアニメ自体がじぶんにとっては「子供の頃に観ていたもの」であり、郷愁の色いや匂いが漂っているので。 そして、こうした個人的な次元のほかにも、2022年の現代に観るわれわれの眼には、2001年公開の本映画は「二重のノスタルジー」として映らざるをえない。 本作の「オトナ」表象を代表する野原ひろしは、もはや2022年の日本のオトナの代表にはなりえない。20世紀ミュージアムで息子(しんのすけ)に自分のクツの匂いを嗅がされて思い出す自身の人生の足跡──新卒入社、結婚、一戸建てマイホーム、子の誕生、家族旅行──は、もはや失われた「型」=「凡庸」な人生であり、現代人にとっては高望みどころか、父権的な規範の再生産として批判すらされうる生き方である。(もちろん、こうした変化はまったく嘆かわしいことではなく、確実に社会の「進歩」として寿ぐべきだ。少なくともわたしは嬉しい。どんどんかつての「理想」が解体されてほしい。) いったんは20世紀のノスタルジーに耽溺してオトナであることを拒否した野原ひろしは、しかしこうしたこれまでの人生の足跡を振り返って、そして四人(と一匹)家族の家長としての「今の自分」、すなわちオトナ-である-自分を再発見し、肯定することで夢から覚醒する。 しかし、現代では、野原ひろしのような「(ある意味で非常に20世紀的で)理想的なオトナ」になれる人間はどんどん減っている。──それでは、結婚もしていない「オトナ」、自分をノスタルジーから醒まさせてくれる「自分の子供」がいないオトナはオトナ帝国の魔の手から抜け出すことは出来ないのか? すなわち、『オトナ帝国の逆襲』はもはや時代遅れの遺物、それ自体が古き悪き時代に限定されるノスタルジーの対象としての価値しか持たない代物なのか?? ここで「いや、そんなことはない」と力強く断言できたら格好がつくのだけれど、今の私にはそれはできない。 本作は明らかに保守的-前時代的な思想を称揚しており、「古臭い」面があることは疑い得ない。「子供がいない大人はオトナ帝国から抜け出せるのか、あるいはそもそも抜け出すべきなのか」という問いは本作のテーマ設定に対して核心的だと思う。 本作における「子供」そして「大人」には、大きく分けて2つの意味合いがある。 ひとつは、単に年齢の多寡、生まれてからの年数で決まる子供/大人だ。すなわち、歳が小さい人間は子供、あるていど歳が大きい人間は大人に分類される。(両者の線引き問題は発生するが、本質的な問題にはならない。) ふたつ目は、「親と子」という意味での「大人/子供」だ。つまり、「子供がいる人間」を大人と、「親から生まれて庇護下にある人間」を子供と呼ぶやり方である。 そして、本作の主人公側、すなわち野原ひろしと野原しんのすけにとっては、上記のふたつの定義は実質的にはじめから合一している。まだ幼稚園児のしんのすけは「父ちゃん」「母ちゃん」がいるのが当たり前で、だからこそ「子供」である。野原しんのすけは、仕事をし、マイホームを持ち、妻帯者であり二児の父親であるからこそ「大人」である。 これがどういうことかというと、野原家、そしてこの映画(の「正義」側)にとって、「親のいない子供」や「子供のいない大人」は存在しない。なぜなら、誰しもある程度の年数を生きていけば必ず結婚して子供をつくり慎ましくも仲睦まじい家庭を持つようになるからだ。そういう「大人」=親から生まれて育てられた「子供」しかいないのだから。 しかし、本作には「子供のいない大人」はちゃんと出てくる。そう、他でもないオトナ帝国の首謀者、本作の「ラスボス」であるケン、そして彼の恋人のチャコのふたりである。 「子供がいることが大人の必要条件」というテーゼを内面化している野原ひろし陣営にとって、ケンとチャコは「大人」ではない。かといって「子供」でもない。両者の中間に位置する、あいまいで定義不可能な存在者として野原家の前に現れる。 ケンが最終的に敗北を認めたきっかけは、しんのすけの「早く大人になりたい」という言葉だ。「早く大人になりたいと切望すること」は「子供」のもっとも純粋で論理的に強力な十分条件のひとつである。(必要条件ではない) なにせ、「大人」は「早く大人になりたい」とは願えないからこそ大人なのだから。 ケンとチャコが身投げ─自殺─しようとするのを見てしんのすけがはなった一言「ずるいぞ!」。これだけでこの映画は自分にとって真に大切な作品となった。しんのすけは「子供」だから、世間の大人が自殺未遂者に対して投げかけるような「自殺してはいけない」とか「命を大切にしなさい」とか「考え直さないか」とか、そんなこの世でもっとも無意味で無責任で暴力的で大人らしいことは絶対に言わない。しんのすけはケンとチャコが「ふたりだけでバンバンジージャンプしようとするなんて」ズルい、と思って言葉を発しただけで、そもそも飛び降りを止めようという意志はなかった。むしろ逆に「自分も一緒に飛ばせてくれ」という呼びかけ-懇願-野次だった。それに加えて、ふたりが心中を留まったのは「ずるいぞ!」というしんのすけの呼びかけではなく、足元に巣を作っていた親鳩が飛び立ってふたりを物理的に邪魔したからだった。つまり、しんのすけの「ずるいぞ!」は二重の意味でケンとチャコの自殺を止めることに寄与していない。しかし、あたかも彼の言葉によって一命をとりとめたのだと、チャコが膝から崩れ落ちて「死にたくない」とこぼすことになったのだと「誤読」することは出来るし、その様子をフィクションとして観ているわれわれのみならず、当のケン/チャコにとっても、運命の瞬間に耳に飛び込んできた「ずるいぞ!」によって(思い直したのではなく単に)「びっくりして」二の足を踏んだのだと解釈することはできる。つまり、このシーンで行われているのは「誤配」による命のやりとり──それが失われることが回避される結果に終わったそれ──である。この世でひとがひとを救うことがもしあるとしたら、それはこうした誤配によってしかありえない。そう思わされた。自殺という、どう考えても「正しい」行い──この世で人間がとりうるもっとも合理的で倫理的な行為──を、無分別にも「思い留まらせる」ことができるとしたら、それは意図せざる行為、意図せざる自殺の推奨・羨望によってしかありえないのである。 子供は自殺を考えない。不幸にも自殺をする子供はもはや「子供」ではなく「大人」である。こうして、第三の定義にたどり着く。死にたいと思う人間は大人で、死にたくないと願う人間も大人で、子供はただ遊ぶ存在である、と。 オトナ帝国の「大人たちの国」という語の面白み。そもそも「国」や「社会」は大人たちによって作られて運営されているもの。その大前提をあえて言語化して「大人たちの国」と呼ぶことで、現実とは違う共同体を指すことになるという転倒のおもしろさ。 そして、街から大人たちがいなくなったあとで、事後的に、仕方なく「子供たちの国」が発生する、という流れ。考えてみれば、家出やらなんやで子供が主体的に大人たちに反抗したり逃避したりするかたちで「子供たちの国」を作るのがふつうだが、本作ではこれが転倒している。 20「世紀」博物館であり、「昭和」博物館とかではない。元号ではなく世紀のくくり。元号だと右翼っぽさが出すぎてしまう。 本作の思想的なプロットを一言でいえば、「家族主義(家父長制)によって〈子供〉のノスタルジーが打破される話」となるだろう。保守主義によって保守主義が倒されることで保守主義が礼賛されるおはなしだと見ればかなり奇異だ。 Tweet 2022-10-03 09:11:19
92点 映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
マジで完璧なアニメーション映画。社会風刺としても、サイコホラーとしても、コメディとしても、アクション映画としても素晴らしい。2001年公開の本作は、2020年代に生きるわれわれの眼には「二重のノスタルジー」として映らざるをえない。この歴史性と、「オトナと子供」というテーマの普遍性の両方がたしかにあって、そのアンビバレンスもまた深い魅力の源泉となっている。
2022/9/15(木)
Tweet開始10分くらいで「あっこれはヤバいやつだ。いま自分は大傑作を観始めているんだ」と身体が震えた。こんな体験は初めてかもしれない。
「20世紀のノスタルジーに耽溺して子供に退行する大人/オトナたち」というテーマもヤバいが、映像面もずっとすごかった。全カットキマってる。(絵コンテ演出に水島努が関わってるのか……) 俯瞰ショットが多い。美術もすごいし劇伴も良いし、マジで完璧なアニメーション。
21世紀当初の痛烈な社会風刺モノとしても、サイコホラーとしても、コメディとしても、アクションとしても素晴らしい。
クレしんのギャグセンス、めちゃくちゃ自分好みじゃん!!となった。他の劇場版も観てみたい。
いま見てよかった。というか、昨年とかに観ててもあんまり刺さらなかった気はする。オトナというか、自分がもう「社会人」であり「子供ではない」のだというアイデンティティを引き受けられるようになったからこそ、こんなにも足元がグラグラ揺れるような感覚を覚えるのだと思う。大学生とかで観ててもここまで響かなかっただろう。
じぶんは世代的に20世紀の思い出なんて無いに等しいので、本作の20世紀なつかしネタがほとんど分からない。それでも、本作は単に「20世紀へのノスタルジー」という射程だけでなく、「オトナと子供」という普遍的なテーマを扱っているので自分にもクる。21世紀になっても、誰しもオトナ帝国からは逃れられない。
クレヨンしんちゃんの映画を最後に観たのはたぶん小学生時代の町内こども会の旅行のバス(平成ノスタルジー)。
TVクレヨンしんちゃんを観たのもおそらく小学生の頃が最後なので、この意味でも本作はじぶんにとって二重のノスタルジーを帯びている。『クレヨンしんちゃん』というアニメ自体がじぶんにとっては「子供の頃に観ていたもの」であり、郷愁の色いや匂いが漂っているので。
そして、こうした個人的な次元のほかにも、2022年の現代に観るわれわれの眼には、2001年公開の本映画は「二重のノスタルジー」として映らざるをえない。
本作の「オトナ」表象を代表する野原ひろしは、もはや2022年の日本のオトナの代表にはなりえない。20世紀ミュージアムで息子(しんのすけ)に自分のクツの匂いを嗅がされて思い出す自身の人生の足跡──新卒入社、結婚、一戸建てマイホーム、子の誕生、家族旅行──は、もはや失われた「型」=「凡庸」な人生であり、現代人にとっては高望みどころか、父権的な規範の再生産として批判すらされうる生き方である。(もちろん、こうした変化はまったく嘆かわしいことではなく、確実に社会の「進歩」として寿ぐべきだ。少なくともわたしは嬉しい。どんどんかつての「理想」が解体されてほしい。)
いったんは20世紀のノスタルジーに耽溺してオトナであることを拒否した野原ひろしは、しかしこうしたこれまでの人生の足跡を振り返って、そして四人(と一匹)家族の家長としての「今の自分」、すなわちオトナ-である-自分を再発見し、肯定することで夢から覚醒する。
しかし、現代では、野原ひろしのような「(ある意味で非常に20世紀的で)理想的なオトナ」になれる人間はどんどん減っている。──それでは、結婚もしていない「オトナ」、自分をノスタルジーから醒まさせてくれる「自分の子供」がいないオトナはオトナ帝国の魔の手から抜け出すことは出来ないのか? すなわち、『オトナ帝国の逆襲』はもはや時代遅れの遺物、それ自体が古き悪き時代に限定されるノスタルジーの対象としての価値しか持たない代物なのか??
ここで「いや、そんなことはない」と力強く断言できたら格好がつくのだけれど、今の私にはそれはできない。
本作は明らかに保守的-前時代的な思想を称揚しており、「古臭い」面があることは疑い得ない。「子供がいない大人はオトナ帝国から抜け出せるのか、あるいはそもそも抜け出すべきなのか」という問いは本作のテーマ設定に対して核心的だと思う。
本作における「子供」そして「大人」には、大きく分けて2つの意味合いがある。
ひとつは、単に年齢の多寡、生まれてからの年数で決まる子供/大人だ。すなわち、歳が小さい人間は子供、あるていど歳が大きい人間は大人に分類される。(両者の線引き問題は発生するが、本質的な問題にはならない。)
ふたつ目は、「親と子」という意味での「大人/子供」だ。つまり、「子供がいる人間」を大人と、「親から生まれて庇護下にある人間」を子供と呼ぶやり方である。
そして、本作の主人公側、すなわち野原ひろしと野原しんのすけにとっては、上記のふたつの定義は実質的にはじめから合一している。まだ幼稚園児のしんのすけは「父ちゃん」「母ちゃん」がいるのが当たり前で、だからこそ「子供」である。野原しんのすけは、仕事をし、マイホームを持ち、妻帯者であり二児の父親であるからこそ「大人」である。
これがどういうことかというと、野原家、そしてこの映画(の「正義」側)にとって、「親のいない子供」や「子供のいない大人」は存在しない。なぜなら、誰しもある程度の年数を生きていけば必ず結婚して子供をつくり慎ましくも仲睦まじい家庭を持つようになるからだ。そういう「大人」=親から生まれて育てられた「子供」しかいないのだから。
しかし、本作には「子供のいない大人」はちゃんと出てくる。そう、他でもないオトナ帝国の首謀者、本作の「ラスボス」であるケン、そして彼の恋人のチャコのふたりである。
「子供がいることが大人の必要条件」というテーゼを内面化している野原ひろし陣営にとって、ケンとチャコは「大人」ではない。かといって「子供」でもない。両者の中間に位置する、あいまいで定義不可能な存在者として野原家の前に現れる。
ケンが最終的に敗北を認めたきっかけは、しんのすけの「早く大人になりたい」という言葉だ。「早く大人になりたいと切望すること」は「子供」のもっとも純粋で論理的に強力な十分条件のひとつである。(必要条件ではない) なにせ、「大人」は「早く大人になりたい」とは願えないからこそ大人なのだから。
ケンとチャコが身投げ─自殺─しようとするのを見てしんのすけがはなった一言「ずるいぞ!」。これだけでこの映画は自分にとって真に大切な作品となった。しんのすけは「子供」だから、世間の大人が自殺未遂者に対して投げかけるような「自殺してはいけない」とか「命を大切にしなさい」とか「考え直さないか」とか、そんなこの世でもっとも無意味で無責任で暴力的で大人らしいことは絶対に言わない。しんのすけはケンとチャコが「ふたりだけでバンバンジージャンプしようとするなんて」ズルい、と思って言葉を発しただけで、そもそも飛び降りを止めようという意志はなかった。むしろ逆に「自分も一緒に飛ばせてくれ」という呼びかけ-懇願-野次だった。それに加えて、ふたりが心中を留まったのは「ずるいぞ!」というしんのすけの呼びかけではなく、足元に巣を作っていた親鳩が飛び立ってふたりを物理的に邪魔したからだった。つまり、しんのすけの「ずるいぞ!」は二重の意味でケンとチャコの自殺を止めることに寄与していない。しかし、あたかも彼の言葉によって一命をとりとめたのだと、チャコが膝から崩れ落ちて「死にたくない」とこぼすことになったのだと「誤読」することは出来るし、その様子をフィクションとして観ているわれわれのみならず、当のケン/チャコにとっても、運命の瞬間に耳に飛び込んできた「ずるいぞ!」によって(思い直したのではなく単に)「びっくりして」二の足を踏んだのだと解釈することはできる。つまり、このシーンで行われているのは「誤配」による命のやりとり──それが失われることが回避される結果に終わったそれ──である。この世でひとがひとを救うことがもしあるとしたら、それはこうした誤配によってしかありえない。そう思わされた。自殺という、どう考えても「正しい」行い──この世で人間がとりうるもっとも合理的で倫理的な行為──を、無分別にも「思い留まらせる」ことができるとしたら、それは意図せざる行為、意図せざる自殺の推奨・羨望によってしかありえないのである。
子供は自殺を考えない。不幸にも自殺をする子供はもはや「子供」ではなく「大人」である。こうして、第三の定義にたどり着く。死にたいと思う人間は大人で、死にたくないと願う人間も大人で、子供はただ遊ぶ存在である、と。
オトナ帝国の「大人たちの国」という語の面白み。そもそも「国」や「社会」は大人たちによって作られて運営されているもの。その大前提をあえて言語化して「大人たちの国」と呼ぶことで、現実とは違う共同体を指すことになるという転倒のおもしろさ。
そして、街から大人たちがいなくなったあとで、事後的に、仕方なく「子供たちの国」が発生する、という流れ。考えてみれば、家出やらなんやで子供が主体的に大人たちに反抗したり逃避したりするかたちで「子供たちの国」を作るのがふつうだが、本作ではこれが転倒している。
20「世紀」博物館であり、「昭和」博物館とかではない。元号ではなく世紀のくくり。元号だと右翼っぽさが出すぎてしまう。
本作の思想的なプロットを一言でいえば、「家族主義(家父長制)によって〈子供〉のノスタルジーが打破される話」となるだろう。保守主義によって保守主義が倒されることで保守主義が礼賛されるおはなしだと見ればかなり奇異だ。
2022-10-03 09:11:19